「異物の発見装置」

消費市場における多くの領域で「類似」が氾濫する圧力はなかなか強烈なものだと日頃から感じている。

差異と反復(の循環)

芸術にしても、17世紀のオランダ黄金時代の画家たちは、特定の主題が売れると気付くと、営利のためにこれぞとばかりに飛びついたと言われている。

まぁ、今更そんなことを持ち出さなくても現代に氾濫する似たり寄ったりのサービスや商品群を眺めてみれば一目瞭然だろう。いわゆる「(微細な)差異と反復」が遠方に伸びるというよりは終わりのない循環状態だといえる。僕たちは差異を買わされているようなものなのだ。(とはいえ不満があるわけではありません)

しかし、従前の文脈を意図的に覆すこと(エディプスコンプレックス的)でその存在を確固たるものとしてきた芸術領域にしても、初期はそんな様相を呈していたんだなと思うと当時の画家たちが急速に身近に感じられくる。

発掘される「異物」

しかし!

こと芸術市場においては、アーサー・ダントーの同定する「アートワールド」の存在が芸術市場を他の資本主義的市場とは本質的に異なるサークルとして独特の存在感を醸成する役割を担ってきた。その中でも、アートワールドの特に注目すべき点として「異物発見装置」という機能の側面がある。

 アートワールドはさまざまな作品の中から一定のものを評価、承認する機構です。それは、既成の文化に対立する「異物の発見装置」の役割を果たすこともあります

アートヒステリー P59|大野左紀子著

単にアート業界に関係する人々の間の陰謀(ボードリヤール)的なサークルではないのだ、という点は気に留めておかなければならない。

そうなると、「異物」という対象は、異なる視点を素早く吸収していくことでより多面的(=あらゆるニーズのを受け止める多面体の意)であろうとする主体(=市場)にとっての燃料、いや、いわばカルシウムのようなその構造を支える栄養素のひとつと見做せる。

「異物」って実はとても大事なものなのだ。

第三者による「異物」発掘

ところで、ここで僕が関心を持っている点としては、それが市場と作り手をつなぐ第三者的立ち位置から「発掘」されるという仕組みの方である。

例えていうならビジネス領域におけるベンチャーキャピタルのような存在とでもいおうか。

そう考えると、今は何者でもないシード期のスタートアップ企業を発掘することと同様に、将来有望そうな対象となり得る「異物」を第三者的に発掘しようとする文化や装置の存在がその市場の力強い発展を支えているといえる。

他方、そういった文化や装置が存在しない、あるいは極めて貧弱な状況下では、いくら作り手側が異物であろうとしてもスルーされ、なんなら遠ざけられて終了、となってしまうだろう。

そこには、新しい視点を取り込んで多面化していくというサイクルは生じず、新たなチャレンジは生まれにくい。

イメージビジュアル市場における「異物」

イメージビジュアルの分野でも、放っておくと17世紀の画家たちの行動と同じような、いやむしろより売れ筋集約方向への一方通行な状態が生じやすい土壌があるが、それはこのような「異物」を発掘し投資するといった文化・装置が存在していないことがひとつの要因であるのかもしれない。

昨今の閉塞感は「物事(コンテンツ)は時間経過とともにより良くなっていくはずだ!」といった単純なモダニズム的未来思考の素朴な取り込みだけでは乗り越えられない時代にきているからだと思っている。

意図的に「異物」に目を向けていく必要があるのだ。その意味でも、イメージビジュアル領域における「異物発見装置」とはどういったものなのか、思考を重ねていきたいと考えている。

探求は続きます….

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