「聞き手であること」
芸術評論家のジョン・バージャーのエッセイの中で、モダニズム写真家とされるユダヤ系アメリカ人のポール・ストランド(1890-1976)についてのある記述に目が留まりました。以下引用です。
彼が選ぶ場所は何かが起こりそうな所ではなく、多くの出来事が関係するであろう場所である。それゆえ、何の逸話を用いることなしに、被写体が語り部になる。河は河を語り、馬が放牧されている牧場は牧場を語る。妻は彼女の結婚について話す。写真家であるストランドは聞き手であるべく、自分のカメラを据える場所を選ぶ。
「見るということ」ジョン・バージャー
聞き手であること!
イメージ制作の現場では、いかに良き指示者であるか、というスタンスが強そうに思うのである種新鮮な観点です。
そういった感覚を念頭に、写し出されている被写体に対して「何を語っているのですか?」と問いながらストランドの作品群を改めて眺めてみますと、また異なる世界が現れてきます。
一方で、見るものとしての自分は、その写真に収められた場所とその被写体の関係性における文脈的知識が欠けているので、あくまでも僕の拙い知識・経験の範囲だけの解釈となってしまいます。ですので、何か足りないというそんな気分にもなります。
写真の見方は自由だ、というのが現代的価値観では多勢ではあると思いますが、ストランドの作品群はその場所とその人たちとの歴史性のようなものの把握を促される気がします。これはイメージビジュアルの作り手としても一つの切り口になり得るのではと考えるとまた視野が広がります。
ちなみに彼の作品の中では「Blind Woman (1916年New York)」が気になっています。まず最初に目に飛び込んでくるダイレクトでインパクトあるテキストメッセージに引きずられてしまうのか、何か強烈なものを感じます。1916年のNew Yorkの状況とこの時この場所にいた彼女(Blind Woman)はどのような文脈を構成しているのでしょうか。
そのように感じた何かをきちんと言語化できるようになりたいと切に思います。