価値観としての「真・善・美」

年初にも書きましたが、自分の意識に現れてくる社会の事象群に対する解釈というか捉え方の基準のアップデートが待ったなしであるという思いがますます強まっています。

タイミング、といっていますがそれはある日突然変更されるのではなくじわじわと変わっていくもの。しかし、大幅な変更みたいなものは意識的な努力の伴う行為であるだろうと思うのです。

とはいえ、よく考えてみると何某かの基準というのがそもそも今の自分の意識に存在しているものなのかどうかは怪しいところ。それらのほとんどは感覚的であり、臆見を含んでいますし、さらには偏っているであろう知識も大きく影響していそうな自覚はあります。

そんな悶々とする日々の中であれこれ書物を漁っていると「価値観」なるワードの網に関心が引き寄せられていることに気づきます。そしてそれらはプラトン+カント的な「真・善・美」の追求と多かれ少なかれ関連していたりします。目にするあらゆる事象に対し「ほんとうなのかうそなのか≒哲学・社会学的」「よいのかわるいのか≒倫理学的」「うつくしいのかみにくいのか≒美学的」といった突き詰めを施すことで、それらが自分にとってのどのような意味として再生成されるのか、そういった思考形態であるような気がします。

ふと、イメージビジュアルを着想する際にこういうプロセスを持てているかと自問してみるとその意識はあまりにも薄いなとの自覚があります。現状は色々すっ飛ばしていきなりマーケットとの接続にジャンプしてしまっています。もし、この三つの基準をスタート地点に置いたとしたら、着想その時点からクリエイティブの方向性が大きく異なってくるだろうとの予感が止まりません。イメージビジュアルとして”売れるのか”を考える前に下地として思考すべきことが山ほどありそうです。

ところで、少し前に以下のようなツイートが飛び込んできました。直感としては決して美しいとは感じないこのビジュアルをどう捉えるのが良いのか、そして捉えた先にどのようなイメージビジュアルを発すべきか。世の中に発信されるイメージビジュアル群を支えるクリエイティブとはそういうことと向き合う使命を帯びているのではないか、いや意図的に持つべきではないか、と考えています。

イメージビジュアルの存在意義探求はまだまだ続きます。

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