エクス・マキナ的影響
映画やドラマでは、おおむね「新しいもの・見慣れないものに対する恐怖」という感情を効果的に取り込む傾向があるようです。
まぁそれはそうかも知れません。例えば未来の描かれ方で視聴者にウケけるのは大体ディストピアな世界ですからね。
そして、現在の社会ではそういった対象としてAIという存在影響が増してきていますので、その観点を扱った映画・ドラマというジャンルもまた注目されているようです。
それらは、人類がAIをどちらかというと扱いきれない存在として描く作品の傾向が多いような気がしています。
僕の中で印象に残っているのは、例えばA.Iでありher/世界で一つの彼女やあのA24制作のエキス・マキナだったりします。アイ・ロボットという作品なんかもあリましたね。
それらはいずれも裏切り・敵対といったどちらかというとネガティブな世界観で捉えられていました。AIが世界をより良くしていくような題材を扱った作品はありましたっけ?(実際それはエンタメとしての興味に欠けそうですが)
というわけで先日、映像が印象的だったエクス・マキナを久しぶりに再視聴しました。うーんやはりディストピア。というか人間とAIはどこまでいっても本質的に繋がれそうで繋がれない。AIが自己意識を持ったとしてもそれは他者に対する感情移入、つまり情や信頼といったナノ単位で要求される繊細で多様な感情が抜け落ちていて、コミュニケーション上は両者の関係性にそこそこの妥当性を生むのですが、AI自身は根本的にその内部の主観的世界に閉じている感じです。でも人間側は相手が人間ではないとわかっているのに、どういうわけか人間同士と同じような繋がりを期待してしまう…この感情の差分がどうにもこうにも埋まらないのですよね。
そして、その期待は結局最後は裏切られてしまいます。この「裏切る」という感覚も”それ”が持ち合わせているかどうかはあくまでも設計思想とそのクオリティ次第。自己保存を優先するようプログラムされているのでしたら”それ”はその原則に忠実に行動しているにすぎないのですから。あ、作品自体の感想を語り始めたら止まらなくなりますので一旦ここら辺にしておきましょう。
そういう意味では、あらゆる画像を発信しているイメージビジュアルの領域から、AI的未来に対する人々の受け取るイメージの軌道修正に何かしら取り組んでいく必要性を感じているところです。
探求は続きます!
*余談ですが、AIを題材とした作品群を意図的に摂取することで、コンセプター的クリエイターとしてはむしろ「耐性をつける」ことが必要で、そこからアイデアを膨らませるというアプローチもありですね。このコンセプター的クリエイターというテーマはまた別途書きたいと思います。 AIを題材にした作品群