よそ者であり続けること

考えてみれば、僕の歩んできた人生はほぼよそ者的な立ち位置を繰り返してきたと言っても過言ではありません。

住む場所という意味では子供の頃から現在まで10数回の引っ越しを重ね、転職も自らの起業やスタートアップへの創業参画を含め仕事を7回?ほど変えてきました。それらの仕事においても海外をあちこち飛び回る(カッコつけてる!!)生活が大きなウェイトを占めていました。なんなら親も変わりました(笑 

これは、その都度新しい周りの環境に適応しなくてなならないし、人々との関係も再構築する必要があることでもあります。(….などととても良い経験をしてきたような書きっぷりですが、実際は、適応失敗や関係構築がうまくいかなかったりという情景の方がたくさん思い浮かびます….)

そんな状況もあってか、何となく軸を持てていないというか拠り所がないというかいつもキョロキョロしている感覚が自分の意識の根底につきまとっているようにも思います。「確固たる自分」を持っている人たちに憧れを抱いたものですし、人々との関係性においてもインナーサークルという存在にどうしても距離を取ってしまいがちでした。

しかし!

コロナ禍以降、御多分に洩れず動けていません。まさに人生初の動かざること山のごとし、という直近3年間だったかもしれません。

身近な変化としては、これまであまり経験のなかった「ご近所付き合い」という領域へ足を踏み入れたことです。踏み入れてみると何気に楽しく、ふと気づくと集まりの幹事役を積極的に引き受けたりもするようになりました。こういうの初めてだな、悪くないな、と50代後半にもなって気づきがありました。

他方、思考面もそうで、自宅の書斎でものを考え、オンライン主体のコミュニケーションをし、見聞といえばウェブを通してがほとんどという有様。それはそれである種の悩みとの向き合いから現象学という僕にとっての新しい学問との出会いもあったりして意味のあるものもありました。

ただ、そんな傾向にもここへきて変化が生じ始めています。出社の機会や、仕事関係や友人知人からの食事などの誘いも少しづつ再開され外へ出ることが増えてきました。

基本的に篭っていた3年間と違い、移動するとやはり何かこう気持ちも変わってくるものです。異空間というと大袈裟ですが、見慣れないものに囲まれることで自分がよそ者であり、外様であり、マイノリティーであることの自覚が沸々と湧いてきます。

そうそう、あの軸のない挙動不審な自分!キョロキョロと自信なさげに周りを見回して小さなことにも感心できる、そんな感覚。そこにはある種の緊張と刺激が混在していて、そういった感覚からは新しいものの見方や考えが誘発されます。これは、イメージ⇆ビジュアル的コンセプト作りにおいても差異創出にもつながっていくように思います。

つまり「コンフォートゾーンから抜け出せ」ということなのでしょうね。

意識して異空間に身を置き「よそ者であり続けること」が、僕という人間を動かす主要なエネルギー源なのかもしれません。

もっともっと移動しよう!

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