差異とデュシャンとConnecticut

国際的なアートキュレーターであるニコラ・ブリオーさんへのインタビューで構成された「ニコラ・ブリオーとの会話」という記事にめちゃくちゃインスピレーションを得ました。

ポイントとしては「差異はエネルギー」「デュシャンを学び続けること」「Connecticut(コネチカット)」の3つです。

「差異はエネルギー」

アイキャッチの画像に使ったニコラ・ブリオーさんの著書を以前読んだことがあったので、この記事がアンテナに入ってきたのかなと思いますが、彼の言う、

「単調さは敵であり、「思考」は差異から生成されると思います。差異が存在しなければ、エネルギーが生み出されない。」

ニコラ・ブリオーとの会話

については、まさにそうだなと感じるところです。グローバリゼーションによって文化間の差異が減少しつつある世界においては、あえて差異の創出に踏み込みながら、市場と対話していくことが求められるのかなと思います。そういったエネルギーの発信源であることこそが人々を惹きつけるのではないでしょうか。イメージ⇄ビジュアルの領域からもそういったエネルギーを放出していきたいですし、そのような意志を持った場作りがこれからは益々重要になってくると考えています。

「デュシャンを学び続けること」

僕は昨年の10月に「デュシャン」をフックにこのエッセイを書きました。この時は、デュシャンという存在はアートの文脈に理解させられている、といったような観点でした。しかし、この「ニコラ・ブリオーとの会話」を読んでなるほど、となったのは「なぜデュシャンなのか」という問いへの一つの回答を得たことです。それは参加者の1人である芸術批評家の浅田さんの以下のコメントでした。

「もちろんわれわれはデュシャンを研究しなければならない。さもなければ、知らず知らず彼のジェスチュアのひとつをはるかに粗野な形で繰り返すことになってしまうでしょう。われわれはデュシャンを含むモダニズムやポストモダニズムのアーティストたちによってすべてが試みられてしまった地点から出発し、何か違うもの、特異なものを生み出さなければなりません。逆に、文化的健忘症は不可避的に単調な反復につながってしまうでしょう。」

ニコラ・ブリオーとの会話

特に太字で強調した箇所です。なるほど、デュシャンのある種の作品背景を知らないと手をかけない何かを並べてみて「これはアートだ」と言えてしまう事象を誘発しかねません。

イメージ⇄ビジュアルの観点でもそういう側面が存在するのではないでしょうか。果たして僕らは「粗野な繰り返し」を続けていないだろうか、との自問せざるを得ません。そういう意味で「イメージ⇄ビジュアル文脈に関する研究」が芸術領域におけるデュシャンを学ぶことと同じように必要だと思うのです。芸術・音楽・映画・まぁ広告等々は分野として確立していますが、これだけ世の中に発信されているというのに「イメージ⇄ビジュアル」に関してはだいぶあやふやな状況です。「表象文化論」あたりが近しいのかもしれませんが….個人的には「体系化」という作業が苦手なのですが、なんとか向き合って形にしていくべきと考えています。

そして浅田さんのこちらも唸らされました。

ジル・ドゥルーズは「個別/一般」と「特異/普遍」を区別しました。AとBは違うけれど、その差異はアルファベット、あるいは一般的分類体系の一部でしかない。ドゥルーズにとって、真の差異はそのような体系を突き破る特異点の間に見いだされるんですね。ブリオーさんが「関係性のアート」や「関係性の美学」を提起したとき、それは特異点の間の関係にかかわるものだった……。

ニコラ・ブリオーとの会話

ブリオーさんの提唱する「関係性の美学」とはそのような観点だったのかと。文脈(デュシャン)を理解することから脱文脈(脱デュシャン)は始まるけれど、それだけではなくてそれ以上の「特異点創出」への意志をめちゃくちゃ感じます。強烈です。

「Connecitcut (コネチカット)」

最後に、僕の意識に飛び込んできたこのワードは、ある対象と「距離」をとることの意義について語られていた文脈での記事内引用でした。

むしろ、ドゥルーズは孤独ではなく、フェリックス・ガタリとともに何冊か本を書いてさえいる。私は彼らの関係、そして彼らの関係概念は、『アンチ・オイディプス』の中の一語に象徴されると思います。「Connecticut(コネチカット)」=「Connect-I-cut(接続せよ-私は-切断する)」です。接続されているとき、接続を断たねばならないと思う。それは、しかし、接続されているからにほかならない。逆もまた真……。

ニコラ・ブリオーとの会話

特異点的差異を作り出していく上では、社会に、市場にコネクトしながらも、自ら意図的に切断していく(🟰距離をとる)ということ、さらにはそのサイクル化が産む可能性を発展的に読み取ることができました。

「イメージ⇄ビジュアル」における特異点は芸術領域と異なるのかもしれません。例えば市場的には親和性を求められているのが「イメージ⇄ビジュアル」で、特異点を求められているのが芸術領域であるようにある程度は言えると思います。ただ、社会的観点では、執拗なステレオタイプ的習慣を乗り越えるためのある種の特異点アプローチによるイメージの提供が、「イメージ⇄ビジュアル」に求められているようなプレッシャー感じていますし、勝手ながらそういう意義の存在をもっと具体化していきたいなと思ってもいます。(*「アンチ・オイディプス」読んでみよう)

ともかく刺激に満ちた記事でした。

探求は続きます。

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