自動化と外部接続性

つい先日、ある属性の職種の方々は「自動化したがる人種である」というような話を聞いていました。

そういう思考的行動的習慣を素で持ち合わせていること自体に感銘を受けてしまいます。というのも僕には全くそのような発想がないからです。むしろ面倒臭く感じてしまう位です。

でも、よく考えるとこの非対称性はちょっと興味深いです。「面倒臭いから自動化したい人」と、「自動化することそのものが面倒臭いと感じる人」がいるということに。同じ「面倒臭い」と感じる感情にも違いがあるものなのですね。

後者的人間の僕が思うことは、何でもかんでも自動化すること自体が後々面倒の元になる可能性もあるだろうという点です。ある個人の領域の作業のためならそれは外の人間がとやかくいう必要はないけれど、個別的になされた自動化を自分とは別の人に、ましてや組織全体にも当てはめようとするのなら、それは一旦少なくとも近接する何かしらのユニット間で調整してから進める方が結果的には共有かには有効だったりもするでしょう。

まぁ大体において、個人的課題の簡略化を目的とした場合と組織的なそれとが完全にイコールになることは稀です。それでも個別的課題解決が先に存在するのだとしたら、敢えていえばそれら同士がどのように接続され得るのかが効率性向上に寄与するかどうかのポイントとなりそうです。

つまり良い個別的自動化とは外部接続性があるかどうかと言い換えられます。だから個人としては「これは自動化できるんじゃない?」という感覚をいつも持ちつつも暫くは各々作業を進めてあれこれと課題を蓄積しておいて、少なくとも誰かと協業して自動化に持っていく、という方法もあるのかなと思います。協業は別観点による接続性の幅を生じやすくさせそうです。

前置きが長くなりましたが、その意味でレディメイドたるイメージ⇄ビジュアルの中でも、いわゆるストックフォトは外部接続性が必要とされるビジュアルの代表格だと言えそうです。ストックフォトは、レディメイドであるという特性上ビジュアルを必要としているユーザーにとっては(今のところ検索という行為は必要ですが)ある種自動的に現れてくるものです。その現れてきたビジュアル自体が社会的にしろ個別企業的にしろ何かしらのニーズと、あわよくば複数的に接続され得るかどうかが存在意義上の重要なポイントとなります。

個人的にはイメージ⇄ビジュアルクリエイティブにおける主観性の投影という考え方を進めていますが、このイメージ⇄ビジュアル上の外部接続性という観点はやはり常に念頭に入れておかねばとリマインドされる会話の時間でした。感謝です。

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