ビジョン
作家のミシェル・ウェルベックは、自身の小説に自分を登場させ、「(ウェルベックは)社会についてかなり的確なビジョンを持っている」と登場人物にいわせたりしている。なんだか刺さる。
何かしらしっかりしたものを創るにはそういった姿勢というかものの見方を持っていることが重要そうだというのはまぁわかる。翻って、自分には大きく抜け落ちている点でもある。特に「社会について」はどちらかというと刹那的に動向を追いかける傾向が強いという自覚すらある。いわゆるリースマンの他人志向型人間だ。
が、これもある種のヴィジョンといえないだろうか。「人が見る社会というのは断面の連続なのだ。断面を追うことで一つの世界が見えてくるのだ」と、超主観的にこじつけることも可能といえば可能だ。
会社経営なども秀逸な「ビジョン」が必要とされている。多くの人々をある方向でそこそこまとめていくには「物差し」が必要なのだ。「うちの社長は社会についてかなり的確なビジョンを持っているんだよ」的な。
読者にしても、視聴者にしても、社員にしてもあるいは消費者にしてもそのような人々が”まとまって”なんらかの方向性を持って心を動かされたり、行動をおこしたりといった影響を受けるのは、その対象が発する何某かの「物差し」に共感できるかどうかという点は、程度の差こそあれ世間一般でもそれなりに認知されている捉え方だろう。
ただ、これには鶏と卵の側面がある。
そもそもその人が根源的に持っているビジョンに周りが自然と惹き寄せられてくるのか、それとも人々と協働していく必要があるから彼女/彼らに向けて良いビジョンを作ろう、とする動機が働くのか。これは良い悪いという話でもないのだけど、実際はかなりの割合で後者が多いようだし、世の中的にも必要とされている気がする。前者は周りから見れば一見かなりわかりづらいものではないだろうか。
その上で、ウェルベックという作家は、彼の小説を読む限りにおいては極端な前者の立ち位置にいるような気を起こさせるところに僕は”勝手に”魅力を感じてしまう。根源的なビジョンと作られたビジョンとの違いとでもいおうか。
まぁかなり癖のある作家だから、この小説の中では文字通りに受け取ってしまっては、まんまと罠にはまった単純な読者ということになってしまうかもしれない。それでも良いのだけど。