意識とAI
現象学の創始者で哲学者のフッサールは、数学者としてそのキャリアを開始したのだそうで、いわば、「確実なもの」と「あいまいなもの」の関係を突き詰めていたようです。
数学は確実で「厳密な」ものを扱う。これに対して、たとえば、人間の日常の感覚とか、芸術とかなどは「あいまい」なものだ。「キミは馬鹿だ」という言葉には、無限のニュアンスがありうるが、「1+1=2」は、たったひとつの意味しかない。だが、両方ともおなじ言語の使用によって表されたものだ。
「現象学入門」
「キミはバ◯だ」という表現の問題点はさておき、この引用した一文には昨今のAI技術の進化と重ねて色々と思考を巡らすことができます。
例えば、AIという技術の内側はいわば厳密性の塊であり、そしてそこから生じているものはテキストであれ画像であれおおむね人間が受け取る(解釈する)曖昧領域であるという点。
特に、多くの既出データを取り込んで生成されたとある画像が”その厳密性”から生じたとしても、画像そのものの人間による解釈は「たったのひとつ」ではなく基本的に多様なのです。
世の中が厳密ー曖昧ー厳密ー曖昧・・・・という循環で動いているとすれば、僕はやはり曖昧領域の重要性を考えてしまいます。なぜなら、(AIの技術的領域に踏み込めない自分という前提もありつつですが)AIが今の生成的アプローチを続ける前提を取る場合は、新たに生み出されるデータ群の源泉としての人の意識へのクローズアップがより重要となると考えるからです。
現状の生成アプローチは、ベースとなる新たなデータが次から次へと新たな局面を生み出されなくては自ら存続できないように見えます。つまり”それら”は人間の意識がエネルギー源なのです。まるでSFですね。といいますか、完全にマトリックス….
これからのAI技術をリードするの”も”あくまでも人間の意識の在り方なのではないか、と考えています。