「主観ー客観」図式の取り払い
「主観と客観」という哲学的テーマについて、これまであまり真剣に考えてこなかったように思います。むしろ、主観的であるという言葉の持つニュアンスを避けてきた気すらしています。その言葉の持つ意味にはネガティブな印象を持っていましたし、おそらく自分が極めて主観的・直感的な人間であるとの自覚があるのも要因だと思っています。
社会生活の場面では「客観性が大事だよ」とよく言われますが、そこには独りよがりの感覚で物を見るな、言うな、といった主観的であることに対するある種の否定的な意味合いが含まれています。
しかし、現象学を学び進めてみると、まず最初にこの「主観ー客観」と言う図式の捉え方の転換が求められることになります。長らくこびりついた思考習慣を転換させるという意味では苦しいのですが、むしろその中に何かしら心地よさを見出してもいます。
主観から始める
それは「あえて主観から始めよ(=方法論的独我論)」というアプローチです。これはまだ”直感的”にはしっくりきていませんが、主観的であることを否定的に捉えなくても良いのではないか、という観点はわりと重要なのではないかとの気づきがありました。
その思考を獲得する前提として、客観は存在していない、いや存在できないという考え方を受け止める必要があります。
人間の認識を一種の認識装置として考える限り、認識の原理はいま見たような事情に還元される。<客観>とはここで、コードの「正しさ」を判定するようなオリジナルなものになるが、コンピュータ(人間)は原理的に一定のコード(認識装置)にしたがって考えるから、このコードの<外>に出てコードの正しさを検証できないのである。自分の認識が<客観>に「一致」するかどうか<主観>にはけっして決定することができない、と言われるのはそのためだ。
現象学入門
自分なりに言い換えると「ひとは他人の主観の中には入れない」から決して客観に辿り着けないのだ、とも言えるのかも。いや僕じゃなくて誰か言ってたかもしれませんね!!
イメージビジュアル表現への応用
ところで、勿論上記引用の一文だけで主観ー客観問題は捉え尽くせませんが、こと、イメージビジュアルの構想時点ではこのような観点から始めてみるのとそうでないのではその繰り返しの過程で大きな違いが出てきそうです。
ここでキーになるのは、僕らの世界での馴染みやすさでいえば、市場ニーズを「客観的」と捉えているという点です。イメージビジュアル創造への現象学的応用はまだぼやっとしているのでうまく書き表せないのですが(メモが散乱中!!)、そもそもイメージビジュアルにおける「市場ニーズ」という概念は実は極めて曖昧なのです。繰り返します。常に曖昧なのです!
誰かが「こういうのが欲しかった!」と言ったらそれが「ファクト」といわれたりするのだけど、そのものズバリ!を提供できないのがイメージの世界。いざ提出しても「ちょっと違うんだよねぇ。色味がほらこう…..」というような現象は日常茶飯事ではないでしょうか。
でもちょっと待って下さい。そもそも客観というのはもっと普遍的な存在であるべきものではなかったのでしょうか?なぜここではそれがこんなにも曖昧なものになってしまうのでしょうか。
そう考えてみると、ビジュアルイメージにおける市場ニーズというのは実は主観の集合体なのかも知れない、と思えてきます。つまりそれぞれの主観を突き詰めてみるということの方法論のひとつとして主観間の共通の了解点を探るという姿勢。これこそイメージ創造への現象学的応用と言えそうではありますが、いろんな要素をすっ飛ばして一気に結論に飛び付いてはいけませんね。悪い癖です。
僅かながらも足音が聞こえているのですが、あちこち見渡しても肝心の姿が見えてきません。そんな状態では一旦態度を留保しておくのが吉でしょう。
探求を続けます。